会長挨拶

このたび会員の皆様からご推挙をいただきまして、比較思想学会の第11代目の会長に就任することとなりました。思いもかけない大任でございまして、大変に光栄なことと存じあげますとともに、その責任の重さを噛みしめております。

前会長の頼住光子先生は、任期中の6年の間、コロナ禍という未曾有のパンデミックに直面されながらも、しっかりと比較思想学会を守り抜かれ、お示しになっておられた、比較思想の方法論的見直し、比較思想の学際化・国際化の加速、学会の組織強化というテーマを十二分に実現されました。それは、頼住先生が尽力されました、比較思想学会50周年事業を見れば一目瞭然かと思います。

その成果を受けまして、その上で比較思想学会をどのようにさらに活性化してゆくのかをあらためて考えたいと思っております。ここで鍵となりますのは、地方であろうかと思います。伺いましたところでは、かつて比較思想学会には地方支部が少なからざる数あり、そこで活発な学術研究・学術対話が行われていたとのことです。それを少しでも取り戻して、ボトムアップ型の比較思想研究を充実したいと思います。

このように考えます背景には、普遍の問題があります。近代における比較という方法は、どうしても西洋中心的なものであり、東洋は西洋という鏡に自らを映しておりました。そこでの普遍は西洋が独占するものであり、それをトップダウン型でその他の地域に適用するというやり方でした。もちろん、それによって多くの翻訳や対話が行われ、竹内好が述べたような「東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する」(「方法としてのアジア」)ということが生じたこともありました。しかし、それでも西洋中心主義的な傾向はなかなか変わりません。かえって西洋以外の地域がそれを補強してしまうことさえありました。

では、別の形で普遍を考えてみてはどうでしょうか。それは、ボトムアップ型で水平的な広がりを持つようなもので、たえざる批判的な見直しのプロセスのなかに置かれる、「普遍化する」という運動としての普遍です。それは、在地の概念を尊重し、それを普遍化することで、他に開いていくというものです。日本にも、その他の諸地域にも、そうした重要な在地の概念が豊富に残っていると思います。ここで重要なことは、そうした在地の概念が、独自のものだとか、固有のものだとかいうように、すぐには前提しないことです。いかなる文化であれ、他の文化との交渉なしに成立したものはなく、しかも自らの歴史のプロセスにおいて、自らの過去でさえ、差異ある反復としてしか継承できません。文化は入れ子状になった複雑系なのです。ですので、どの概念を取りあげてみましても、そこには他者と差異の痕跡があります。わたしは、比較思想は原―哲学だと考えているのですが、それは概念一つに比較可能な構造がすでに刻み込まれていると思うからなのです。

そうしますと、日本の中においても同様の普遍化が必要になります。東京からのトップダウンではなく、地方からのボトムアップによって、在地の概念を水平的に普遍化してゆく。そして、これが国境を越えて水平的に展開してゆく。ここにこそ、これからの比較思想の可能性があるのではないかと思います。

ただもとより微力でございますので、会員の皆様のご支援がなければ何も進みません。是非とも比較思想学会への積極的なご関与をお願いしたいと存じます。その上で、理事や評議員の先生方、また大正大学の学会事務局の皆様方のご協力を得まして、比較思想学会を会員の皆様にとって実りあるプラットフォームとして維持し、発展できればと思います。

以上、会員の皆様のご支援を心からお願いいたしまして、会長就任の挨拶とさせていただきます。
 

令和5年9月
中島隆博